Qラボ 九州しあわせ共創ラボ

vol.16ROASTER’S COFFEE焙煎屋 オーナー
平山 悟さん

今回は第四回目。ゲストは、日本コーヒー文化の創成期から焙煎一筋でコーヒーと向き合う「ROASTER’S COFFEE焙煎屋」のオーナー平山悟氏。
福岡警固「焙煎屋」にて。

 

J : ジョニー

H:平山さん

 

うより自分発想する楽しさ

J:平山さんの出身はどちらですか?

H:親に聞いたところによると糸島、昭和26年なんで戦後の疎開先で産まれて2週間くらいで吉塚に引越して10歳くらいに西新へ移ったとよね。
親が斜陽産業の石炭屋だったんで色々とあって廃業して西新へ行ったんですよ。

J:当時はそういう時代ですもんね。

H:父は早稲田のラグビー部出身で、ラグビー部出身の結び付きは凄く強くてね、その繋がりで関東で仕事をし、僕ら家族は西新で生活しとったんよ。
正月もラグビー優先で帰ってこないから、年に数回帰ってくるかこないかでしたね。
父はねラグビー協会で九州の世話役をしよったんよ。
審判もしよったけん、九州で国際試合なんかあると審判かTVの解説しよってね。

J:平山さんから想像できない話です(笑)
僕のイメージではご実家が商売されてて、今の焙煎屋に繋がったと思ってたんですが全然違うんですね。

H:そうやね、サラリーマンの父と家計を支えるために働きに出てた母に育てられたね。
そんな環境やったけん、小学校の頃から花や園芸が好きで一人で庭の土をいじってね、当時は苗の値段が高かったけん、安い種ばこずかいで買って植えて遊びよったんよ。

友達と遊ぶより庭で這いずり回りよったね。

J:今も植物を好きなのは幼少期から始まってたんですね。

H:小さい頃は花や虫や動物とばっかり遊びよったね。

J:そうなんですね。

H:中学に入った頃に東京オリンピック、ビートルズに熱狂して、VANジャケットの到来でアイビーに目覚めるったい。
そんで横尾忠則なんですよ!サイケデリック!それが衝撃で見様見真似で自分で色々と描き出すわけですよ。英文字をサイケデリックな色でアレンジしたりし出してレタリングの世界にはまって行くわけ。

J:その当時はどうやって情報を得ていたんですか?TVですか?

H:お金持ちの友達がおってさ、そいつが流行りの物を全部もっとってね。

J:友達の家が情報源だったんですね。

H:友達の家にあるレコードのジャケットなんかを見てデザインに目覚めて、将来はレタリングデザイナーになると決めたんよね。
でも、当時は専門的な学校なんかも無かったから、独学で描きよったんよ。

J:今の時代は何でも専門的に学べる学校があって当たり前ですもんね。

H:まぁ人に習うより自由に発想してた方が楽しかったよ。
でも、大学は経済学部に入って個人的にデザインの先生に週2回くらいついて基礎を教えてもらったけどね。

ブレンドはうもんじゃなく、自分作るもの

J:コーヒーに興味を持ったきっかけはいつ頃ですか?

h:当時、喫茶店は大学生になって入れるような大人の場所だったんでね。
大学生になって初めて喫茶店へ行くわけよ。

J:当時の喫茶店は大手コーヒーメーカーが提供する珈琲豆しかなかったですよね。

H:そうやね。通ってた喫茶店のマスターが丁寧にドリップしてくれた一杯が美味しくてくさ。
どこも同じ様な豆を使ってるのに珈琲の淹れ方でこんなに味が違うんやって気付くわけよ。
それですぐに珈琲の本を買って、ミルやサーバー、コーヒーカップを買うわけ、まず道具ね。

J:その当時は福岡市内に喫茶店は沢山あったんですか?

H:沢山ありましたよ、あちらこちらに普通にあったよ。
どこも同じ様な豆を使っているから、丁寧に珈琲を淹れてるところとそうでないところで味が違うよね、マスター次第というか。

J:逆にお店によって味がわかり易かったんでしょうね。

H:マスターの珈琲への向き合い方次第よね。たまたま通った店のマスターが丁寧に珈琲を淹れてたんで僕は気付いたというか。もし他の店に通っていたら違ったかもね。

J:良い話ですね。

H:最初は艶被って色々な珈琲豆。グァテマラだぁマンデリンだと買ってみて、お茶缶に種類ごとに入れるわけさ。すると飲んでるうちに一杯分の豆が無い事があるわけよ。少なくとも常時3種類は用意してたから。これに足りない分はこれを足してとかして一杯の珈琲を淹れるわけよ。

J:ブレンドですね!

H:そしたら何通りもの味を作れる楽しみを知ってしまうわけなんよ。

J:それはまだ大学生の頃ですか?

H:そうそう、ブレンドは買うもんじゃなくて自分で作るものだとやり始めて、こんなに楽しいもんだと思ってね。幅がどんどん広がって行くわけですよ。
そうこうしてたら酸味と苦味なんかにはまって行くわけよ。それで当時は酸味があるものが苦手でね。自分で淹れるか馴染みの喫茶店以外の店へ行くと紅茶飲んどったよ。

J:何が出てくるかわかりませんもんね(笑)

H:もうね、他の物を受け付けないと言うかね。

J:もうお父さんのスタイルが出来上がってたんですね。

H:まぁそんな時代があったけど、販売する立場では酸味も理解しないといけないと思って、崖から飛び降りるような覚悟で酸味が強い豆も飲みました。
あれこれ飲んでるうちに酸味の違いに気づき出すわけよ。すると苦味も広がって行くわけ。苦味って真っ直ぐな路線なんですけど、酸味はすごい幅があるんですよ。

J:苦味が縦としたら酸味は横って感じですね。

H:そうそう。ただ苦味を重視して行くと酸味ってのは後退していくとよ。
焙煎をすればするほど酸味っていうのは抑え込まれて出てこなくなるんよ。

その酸味が苦手だったんですが、酸味に幅があることに気付いて凄く珈琲の世界観が広がったんよね。珈琲って面白いな〜ってね。

ただ単純にこうしたらこういう焙煎度合いでどうのこうのってだけじゃなくて、プロセスをいじる事によってキャラクター(豆の種類)が色々な感じにかわっていくわけですよ。

私にも5人の弟子たちがいるんですが、同じ豆を使ってもそれぞれの味になるわけね。

当然、私が焙煎しているのも毎日のように違いがあるわけ。同じように焙煎しても同じにはなかなか出来ないんだよね。

農園の人達が一生懸命自分んとこの味を出す為に手間暇かけて育てた珈琲豆をどういう風に引き出して行くかを毎日考えながら努力しとるよ。

考える事を楽しめたら日常がもっと面白くなる

J:お父さんが焙煎を始めるきっかけは?

H:昔ね、シバタ書店という珈琲の専門書を出してる出版社があって、記事の中に「銀杏煎り器で焙煎が出来る」と小さく書いてあったわけよ、写真じゃなくてイラストでね。

それがずっと頭の中に残っててね、だいぶ経って近所の金物屋さんで銀杏煎り器を発見して購入するわけよ。生豆は知ってる所があったから分けてもらって、やり始めるわけ。

J:誰かに教わったんですか?

H:誰からも教わってないよ、今から40数年前なんでインターネットも無いし、独学で始めたんだよね。なぜ独学かと言うとさ、小さな頃から興味を持った時の探究心は半端なかったからね。

自分で考える方が面白いのよ。教えられたら教えられたままでしか無いから止まってしまう可能性があるよね。自分で探す方が面白いんだよ、ひねくれもんたいっ(笑)

J:独学で焙煎を初めてどうやって焙煎屋を始めたんですか?

H:当時はお茶屋さんに少しだけ大手コーヒーメーカーの珈琲豆が売ってあったの。珈琲も販売できるならお茶屋しても良いかなって最初はお茶屋を始めたのよ。

当時は、珈琲屋では成り立たない時代だったからね。珈琲はマニアの物であって一般家庭に浸透するはずが無いと思ってたから、珈琲に携われて商売ができるならとデザインを諦めてお茶屋を始めようと決めたとよ。

そして、まずはお茶屋をするにあたってお茶の勉強をするわけよね。たまたま母の友達がお茶屋さんを営んでて修行をしたのよ。

それでお茶屋さんを始めたわけやけどなかなかお茶は売れない。だけど珈琲はちょこちょこ売れててね。

J:お茶が売れなくなったのは時代の流れですか?もうインスタントコーヒーが一般家庭に普及してたからとかですか。

H:そうねぇインスタントコーヒーっていうより、その頃にコーヒーメーカーなる物が発売されて一般家庭でハンドドリップせずに珈琲と水を入れると勝手に珈琲が作れる物が出てきた時代やったね。まぁコーヒーメーカーの存在で市場は大きくなるのかなとは思ったよ。

J:なるほど。

H:そうこうしているうちに珈琲に理解がなかったお茶の卸問屋さんが焙煎機を購入して珈琲に力を入れ出したんよね。そこで生豆を譲ってもらって、焙煎の勉強が始まるわけですよ。

J:お茶の卸問屋さんも珈琲にシフトチェンジするくらいなんで、時代の変化の時期だったんでしょうね。

H:その頃にはね、珈琲の売り上げはドンドン上がって行くんですよ。
だから珈琲だけで行こうと焙煎機を購入して、今の店の形になったわけよ。

J:焙煎機を購入してすぐに商品になるような物は出来ないですよね?

H:いやいや、銀杏煎り器でひたすら数年修行してたからね。むしろ機械が豆を転がしてくれるとか、むちゃくちゃ楽になったけんね。教科書無いからやりながら覚えていってね、その過程がまた面白くてくさぁ。

なんか違う感じで出来た時とか最高に面白くてね、あれもこれも試してみようとか色々考えてね。本当に面白くてたまらないわけよ。今だに焙煎しながら面白いな〜って思ってるもん。

J:まだお父さんの中で答えは出てないんですね。

H:一生出ないやろうね、一生勉強よ。

弟子達にも言うんだけど、これが最高。このやり方が間違いないとか満足してしまうと終わりだからね。
納得はもう終わりの始まりでそこから止まるわけよ。止まったら落ちるしかない。
常に上を目指してやっていこうと言う気持ちを持っていないと絶対美味しい物は出来ないよと。

J:全てに言えることですよね。

H:何でも良いから考える事を身に付ける。考えるという事を日常的にやる事でより考えることが癖になってヒラメキに繋がると思うからね。

俺は考える事が楽しくて楽しくてしょうがないから日々が面白くてしょうがない。
考える事を楽しめたら日常がもっと面白くなるよと。

J:人生もそうですよね。

H:どうせやるなら仕事を楽しまないとどうするって。一番楽しいのが仕事っていうくらいつまらない仕事なんて無いけんね。

J:ありがたいお言葉です。

H:仕事を楽しめたら趣味も楽しめるじゃない、そしたら趣味がもっと楽しくなるよって。そう思ったら何でも楽しくなるじゃない。良い時も悪い時も波はあるけど、いつも楽しんでいれたら幸せじゃない。

昭和を代表する3店の喫茶店が今も存在している福岡の珈琲文化が誇り

J:「ロースターズコーヒー焙煎屋」として喫茶(Cafe)をしなかったのは何故ですか?

H:元々、餅屋は餅屋という考え方があって、半端な事をするより焙煎に専念してより美味しいコーヒー豆で評価され、うちの豆を使ってくれるお客さんがより繁盛してもらう方がと思っとったい。

例えば20数年前に思っていた喫茶のやり方を最近やり出したところがあるとよ。

お客さんに豆はもちろん抽出器具も選んでもらうってやり方。

J:あっ昨年東京行った時に行きました、中目黒のあそこですね。

H:お客さんにどう楽しんでもらうかが珈琲屋だと思うんでね。色々な選択肢があって味に違いがでるから尚更楽しいよね。

J:当時から珈琲の手本や情報があったんですか?

H:無かったよ。豆だけを売るスタイルは当時全国的にもほとんど無かった。

大抵は喫茶で焙煎した珈琲を飲ませるっていう形でね。だってカップで提供するのが自分の味を伝えるには一番早いじゃないですか。しかも利益が一番取れるよね、当時は珈琲を一杯淹れて300円で、豆を100g 300円で売るよりたかが知れた量で一杯出せるんだから利益は良いよね。

まぁ当時は情報が無かったからどこかでやっていたかも知れないけど、九州ではウチが最初だと思うよ。

J:ここ数年で昔からやられてる純喫茶が注目され始めてます。
福岡で一番の老舗といえばどちらですか?

H:そりゃ「ブラジレイロ」やね。

J:「ブラジレイロ」さんも最初は大手コーヒーメーカーの豆を使ってたんですか?

H:いやいや、最初からブラジルの豆を使ってたのよ。

ブラジルと日本の交流があってブラジルの珈琲豆を普及させる為に全国で数店舗だけ店舗が出来たうちの一軒だったと思います。

元々は中洲の川沿いにあったんだけど、戦争で焼けて今の場所になったんだけどね。

オーナーの中村さんとこへは焙煎屋を始める前に色々と話を聞きに行った事があってね。色んな話をしてくれたのを覚えてますよ。

J:「ブラジレイロ」さんの他には?

H:何と言っても「ばんぢろ」さんでしょうね!
1961年に天皇皇后両陛下が唐津へお越しになり、佐賀県知事がばんぢろオーナーの井野さんに依頼して両陛下にコーヒーを淹れるという記事によって、その存在が全国に広まったとよ。誰よりも早く低温注出に気付かれてね、独自の抽出方法を構築し、本も出されてますよ。私たちが20歳前後の頃は、福岡一番の喫茶店として知らぬものはいないという店でした。

でもね、店のあった水鏡天満宮横に連なる長屋の火災で焼け出されてさ。後を継がれた2代目の和人さんが日銀裏で「ばんぢろ」を続けておられましたけど、時はコーヒーチェーン時代、コーヒーと社会の関係が変わってきた頃の1998年に店を閉じられたとよ。しかしね、2017年に井野さんのお孫さんである徳安さんが、和人さんの許しを得て3代目として川端商店街に「ばんぢろ」を復活させてたんよ。

「ばんぢろ淹れ」でコーヒーをつないでこられた和人さんの依頼で、5年程前からオリジナルプレンド作って来た焙煎屋のコーヒー豆を川端の新店舗でも使って頂くことになり、自分もそうだけどコーヒー愛好家の方々に喜んで頂いてるんですよ。

J:また歴史ある深くて良い話ですね。

H:それからもう一店忘れてはいけない「珈琲舎のだ」の存在も大きいでしょうや!

博多駅が現在地に移転して再開発された時に「珈琲舎のだ」さんは、あの凜としたスタイルで珈琲専化を実現され喫茶の範を示されたとよ。

J:そうなんですね。

H:「ブラジレイロ」さんは喫茶と軽食という代表的なワンプレートランチで温かい雰囲気を。「ばんぢろ」さんはマニアックな雰囲気を。「珈琲舎のだ」さんは凜としたスタイルでね。昭和を代表するこの3店の喫茶店が今も存在している福岡の珈琲文化は大変な誇りですよ!!

J:ほんとですね。
ところで「ロースターズコーヒー焙煎屋」の屋号はどう言う想いでつけられたんですか?

H:今から35年前にコーヒーだけでやろうと決めた時から、名前はなんてするかいなって妻と考えよったとよ。その頃は珈琲が農産物で、実がなって、種とって、生豆が白っぽくて、焙煎せんと飲み物にならんとか普通の人は考えてもおらんもん。

「焙煎」やら言うても何の事?みたいな反応が一般的な時代やったけんね。

それやったら珈琲のこと。焙煎のこと。生豆も品質があって、焙煎・鮮度によって、味がどげん違うか皆さんへ知ってもらうごと。ロースターと焙煎機、焙煎する人をそのまんま名前にする方が良かっちゃないかて思うたとよ。

流されないで自分の培ってきた物を焙煎で表現していきたい

J:そういえば、最近よくスペシャルティコーヒーって聞きますけど?

H:昔はね、豆の生産者が消費者の事をわかってない時代だったのよ。

ただ作ってるだけで、何を求められてるなんて考えてなくて、生活できたらそれで良かったから関係無いわけね、それではダメじゃ無いかなって新しいコーヒー業者達が思ったのよね。生産者は作るだけで飲んで無かった。自分たちが作った豆がどんな味なのか飲んで知りなさいって。そして美味しいとか売れてる豆はこんな味なんだって事を知りなさいよって。じゃあ、こんな味を作ったら高く売れるとか求められてるんだって知って行くわけよね。

そんな流れで「カップオブエクセレンス」が立ち上がるわけよ。

そして、色々な農家の豆が品評されてオークションで売られる様になり豆の値段が上がり生産者が潤っていって今の「スペシャルティーコーヒー」っていうブランドができたんよね。

J:生産者を育てて競わせて美味しいものがどんどん出てきた事によって、消費者も珈琲が美味しくなり価値が出て市場が出来たわけですね。

H:そこの所を私は冷静に客観的に見るようにしてお客さんへ提供しとうと。

それによってトレンドが生まれるわけよね。そうなるとさ、良い所も悪い所も出てくるんだよ。元々、珈琲ってのは沢山の種類があるから楽しいわけで、今年のトレンドはこれだ!みたいなのは押しつけになってしまうよね。

だから焙煎屋では、「浅煎りばっかり」「深煎りばっかり」みたいな店にしたく無かったの。喫茶して飲ませないのはそういう意味合いもあるのよね、お客さんには幅広く買ってもらって自分で飲んで楽しんでもらって、選んでもらって評価してくれれば良いんじゃ無いかなって。流されないで自分の培ってきた物を焙煎で表現していきたいって思ってやってるんだよね。

J:今のサードウェーブコーヒーって言われてるのはどう思いますか?

H:もう時代はフォースウェーブなのかもしれないし、そうやって段階を経て進化しているのも珈琲の魅力だなぁ〜って思うなぁ。

ウチはね、どのウェーブにも属してないから孤立してるけどね(笑)

J:なるほど(笑)

H:私も全ての味がわかってるなんて思ってないよ、体調によっても味の感じ方は変わるしね。ただウチの味が好きな人が通ってくれて、私が提案する味を選んでもらってくれたら良いとよ。

「ロースターズコーヒー焙煎屋」を始めた当初から、いつかは色々な味やスタイルが楽しめる時代が来るんじゃないかなぁって思ってやってきたわけやけんね。

 

志を持って珈琲と向き合う

J:今の福岡についてどう思いますか?

H:珈琲っていう切り口から言うと面白い方向に行っていることは確かだし、皆さんが珈琲に興味を持ってくれてると思うよね。もっと楽しい展開が続くんじゃないでしょうかね。

J:平山さんにとっての幸せに生きるとは何ですか?

H:いつまでも勉強できること、勉強が楽しいよ。

それと「志」かな!志を持って珈琲と向き合うこと。

J:平山さんはいつまでも現役ですね。

H:死ぬまで焙煎してるやろうね、焙煎しながらのたれ死んでるかもね(笑)

J:なんか想像できますよ(笑)

H:(笑)

 

「話を終えて」

 

今回は、僕自身が今一度話を聞きたかった方へインタビュー出来て嬉しく思います。

 

平山さんとは「ロースターズコーヒー焙煎屋 平尾店」を営んでいる息子の謙吉くんと15年くらい前に知り合った縁で、僕が12年前に喫茶と雑貨の店をオープンするにあたり、オリジナルブレンドを作りたいと相談しお父さんと初めてお会いしました。

12年前から今でも店で売らせてもらってる「らんらんブレンド」は僕の珈琲の味だと思うし、僕みたいな素人が言葉と感覚で伝えて再現してくれたセンスに驚きました。

 

あの時、珈琲について沢山お話しして頂いた記憶が、僕には凄く印象的で再度話を聞きたい、皆さんへ聞いて欲しいと願い今回のインタビューが実現しました。

 

文面では伝わりにくいのですが、話の流れでどんどん熱く語るに連れて博多弁が少なくなり、まるで語部のように心に響いてきて、平山さんの珈琲に対する情熱を存分に感じれた時間でした。

 

好きな物や好きな事へ対する情熱や志は素敵だなと僕は思います。

 

人に伝えるのは伝える本人が好きじゃ無いと伝わらないと思いますし、楽しんで無いと伝わらないと僕は思っているので、平山さんのような生き方が凄く素敵だと思うんです。

 

僕もそんな大人でありたいと思いますし、そんな大人でいれるように頑張ります。

 

これからは「ロースターズコーヒー焙煎屋」も息子の謙吉くんが担っていくのでしょうが、平山さんが作り上げてきた歴史が薄れることはないでしょうね。

 

平山さん、今回は大変貴重な時間をありがとうございました!

 

これからもご活躍されていくのを陰ながらファンとして応援させて頂きます。

 

山下ジョニー

PROFILE

ROASTER’S COFFEE焙煎屋 オーナー
平山 悟さん

TEXT BY

munetaka.yamashita
Qラボ編集部 ライター 山下宗孝

18歳で福岡の古着店でアルバイトをはじめて以来、福岡の街と共に生き、福岡のカルチャーシーンに深く関わってきた、ジョニーこと山下宗孝。 数々のファッション・雑貨のセレクトショップを立ち上げる傍ら、音楽活動、飲食で店のプロデュースまで行い、最近では福岡のタウン誌に銭湯記事を連載。

Qインタビュー

− 九州で、社会の第一線で活躍する人から学ぶしあわせのカタチ −

Qインタビュー

− 九州で、社会の第一線で活躍する人から学ぶしあわせのカタチ −